2016年10月2日日曜日

ヨナ書3章10節~4章4節「一書説教 ヨナ書 ~当然のことのように~」


聖書は神様が世界を創り、「統治」されていることを教えています。私たちの神様は造り主であり、支配者。世界の中で、神様が与り知らないことはなく、神様の許しなしに起こる事もありません。

この教えは、私たちに大きな平安をもたらします。これからのことは、神様でも分からない。時には間違うこともある。手に負えないこともあるとしたら。どれ程大きな不安の中で生きることになるでしょうか。頼るべき存在がいない、神様の約束が実現するか分からない、というのは恐ろしいことです。私たちを愛し、願う以上に私たちに恵みを注ぐ方が、この世界の真の統治者であること。これは聖書の重要な教えであり、私たちに大きな平安をもたらすもの。

しかし、時にこの教えが、信仰者にとって大きな苦しみ、悩みとなることがあります。大きな悲劇を経験した時。愛である方、恵みを注ぐ方が、なぜこのような事態を許されたのかと苦しみます。正しく生きて上手くいかず、悪が栄えている、不条理な世界に直面すると、神様の統治は正しくないと苦しみます。長らく祈り、大変な労力と時間をかけて取り組んだことが、思うようにいかなかった時、神様は私を嫌っているのではないかと悩みます。強い怒りや憎しみに心が覆われている時、神様が世界を支配するのではなく私が支配者となり、この恨みをはらしたいと願うようになります。

いかがでしょうか。信仰生活を続ける中で、神様が世界を支配しておられることに、悩み、苦しんだことはあるでしょうか。神様の御心よりも、私の願いを実現させたいと思ったことはあるでしょうか。

 神様の統治に納得がいかない。神様の御心は知りつつも、それを実現したくない。このテーマで大いに悩み、苦しんだ人物が聖書にいます。預言者ヨナ。

 断続的に取り組んできた一書説教。今日は三十二回目となり、旧約聖書第三十二の巻き、ヨナ書を扱うことになります。ヨナの苦しみ、葛藤を覚えつつ、そのヨナに対して神様はどのようなことをされたのか。確認したいと思います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進める恵みにあずかりたいと思います。

 

 全四章の小さな預言書、ヨナ書。しかし、そこに記された特異な出来事によって、多くの人にその内容が知られている書。その始まりは、神様からヨナに使命が与えられたところです。

 ヨナ1章1節

アミタイの子ヨナに次のような主のことばがあった。

 

 このヨナはいつの時代、どこの人なのか。実は歴史書にヨナが登場していました。

 Ⅱ列王記14章23節、25節

ユダの王ヨアシュの子アマツヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムが王となり、サマリヤで四十一年間、王であった。彼は、レボ・ハマテからアラバの海までイスラエルの領土を回復した。それは、イスラエルの神、主が、そのしもべ、ガテ・ヘフェルの出の預言者アミタイの子ヨナを通して仰せられたことばのとおりであった。

時は、北イスラエルにヤロブアム王がいた時代。このヤロブアムは四十一年もの間、王であった手腕家。聖書にも、その治世下にあって領土を回復したと記録されています。このヤロブムアの繁栄を預言したのが、アミタイの子ヨナでした。

 このヤロブアム王は、信仰面で優れていたかというと、そうではなかったと思われます。(既に読みました)ホセアも、アモスも、このヤロブアムの時代、北イスラエルに向かって、宗教的悪、社会的悪を糾弾していました。聖書にも「彼は主の目の前に悪を行った」(Ⅱ列王記14章24節)と記されています。それでも、長らく王位に留まり、国は繁栄したと言います。

 何故、ヤロブアムの時代、国は繁栄したのか。ヤロブアム王の、王としての実力が高かったのでしょう。聖書の観点から悪王、それでも神の民には神様の祝福があるとも言えます。これらの要素に加えて、この時代の国際情勢も関係していたと考えられます。イスラエル地方は、南にエジプト、北にアッシリヤ(時代によってはバビロン)に挟まれた地域。二つの強国の影響を受けやすい場所。時には戦争に備え軍備に力を入れなければならない、時には貢物を納めなければならない。アッシリヤやエジプトに勢いある時は、北イスラエル(南ユダも同様)は危険が増します。反対に、アッシリヤやエジプトが衰退している時、北イスラエルは好機でした。そして、ヤロブアムの時代、アッシリヤは衰退していた。アッシリヤの衰退も、ヤロブアムの時代の北イスラエルの繁栄に影響していました。

 

 アッシリヤの衰退によって北イスラエルが繁栄した時代。ヨナも、その繁栄を預言していました。そのヨナに新たに使命が与えられますが、それをヨナは嫌がったと言います。

 ヨナ1章2節~3節

『立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。』しかしヨナは、主の御顔を避けてタルシシュへのがれようとし、立って、ヨッパに下った。彼は、タルシシュ行きの船を見つけ、船賃を払ってそれに乗り、主の御顔を避けて、みなといっしょにタルシシュへ行こうとした。

ヨナに与えられた使命は、ニネベに行き、悔い改めを預言すること。ニネベとは、アッシリヤの首都です。今や衰退している敵国アッシリヤ。北イスラエルからすれば、このまま衰退している方が良いと思える。この使命が与えられた時のヨナの気持ちを想像出来るでしょうか。

その国に行き、悔い改めを預言し、万が一にも、ニネベの人々が悔い改めて、また力をつけることになったらどうなるのか。北イスラエルにとって、脅威となるのではないか。(実際に、ヤロブアム王の後、約四十年後に、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされることになります。)この使命は果たしたくない。ニネベには行きたくない。神の民がいる北イスラエルに留まることも嫌だ、としてヨナはタルシシュへ行こうと船に乗り込みます。

 

 ところがこの船が大嵐に会い、同船した人々が大混乱する中で、ヨナは嵐の原因が自分にあると理解して、海に投げ入れるようにと言います。ヨナが海に投げ込まれると、海は静かになる。人々は、主を恐れ礼拝へと導かれ、神様はヨナを巨大な魚に飲み込ませ、その命を守られたと言います。

 ヨナ1章15節~16節

こうして、彼らはヨナをかかえて海に投げ込んだ。すると、海は激しい怒りをやめて静かになった。人々は非常に主を恐れ、主にいけにえをささげ、誓願を立てた。

二章は、魚の中でのヨナの祈りの言葉。三日三晩、魚の中。ヨナはどのような思いだったのか。非常に興味深く、是非とも読んで頂きたいところ。その内容は、繰り返し、神様が私を助けて下さったと言うもの。そして、最後に次のように祈ります。

 ヨナ2章9節

しかし、私は、感謝の声をあげて、あなたにいけにえをささげ、私の誓いを果たしましょう。救いは主のものです。

 

魚の中の祈りの最後に、「私の誓いを果たしましょう。」と言います。この誓いとは何か。その内容が語られていないのですが、この後の場面から考えると、助け出されればニネベに行き預言すると誓ったのでしょう。

 

 こうして、神様の思いよりも、自分の思いを優先させたいと思ったヨナでしたが、今一度、使命が与えられてニネベへ向かうことになります。

 ヨナ3章1節~3節

再びヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。』ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。

この時のヨナの思いは、どのようなものだったでしょうか。失われたはずの命が助け出された。一度放棄した使命が再度与えられた。喜び勇んで、預言者の働きをしたのか。誓ってしまったてまえ、本当は行きたくないけれどもニネベに行ったのか。再度、使命が与えられニネベへ行ったヨナの気持ちを、皆様はどのように想像するでしょうか。

 

 ヨナの思いがどのようなものだったとしても、ヨナの働きの結果は凄まじいもので、ニネベの人々は悔い改め、神様は下そうとされていた災いを思いなおされたといいます。

 ヨナ3章4節~5節、10節

ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、『もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。』と言った。そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。

聖書の中には様々な預言者の活動が記されていますが、多くの場合、預言者の働きによっても、人々は悔い改めない。預言者の言葉を聞かない姿が出てきます。ところが、この時は目を瞠る結果となります。聖書に記録されているヨナの言葉は、ニネベの滅びを告げるだけのもの。しかしニネベの人々は、それを聞いて神を信じ、断食し、荒布を着て、さらに王と大臣は国をあげて悔い改めるように布告を出したといいます。驚くべきこと。ごくごく短い期間に、ヨナの言葉でニネベの人々は悔い改めた。

 何故、ニネベの人々は悔い改めたのでしょうか。他国から来た、それもニネベの人々が信じていた神々とは異なる神の宣告を、ニネベの人々はどうしてここまで真摯に受け止めたのか。皆様は何故だと思うでしょうか。

 

 新約の時代。イエス様が、本当に救い主かどうか、しるしを見せて欲しいと言われた時、イエス様がヨナのことを引用して、次のように言っています。

 マタイ12章39節~41節

しかし、イエスは答えて言われた。『悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。』

ここでイエス様は、ヨナには本物の預言者であるという「しるし」があったと言われています。それが、三日三晩、大魚の腹の中にいたことでした。ニネベの人々は、その「しるし」をもった預言者の言葉を聞いて、悔い改めた。同様に、イエス様が本物の救い主であるというしるしは、三日三晩地の中にいること。つまり、十字架で死に、三日後に復活すること。このしるしをもってしても、イエスを本物救い主と信じない者は、あのニネベの者たちより罪深いと言われています。

 話を戻しますが、ニネベの人々がヨナの言葉で悔い改めたのは、ヨナが「しるし」を持っていた人物だから。ヨナ書に詳しく記されていませんが、ヨナを海に投げ込んだ船の人々は、あの出来事を経て、神を恐れ礼拝しました。それはつまり、エルサレムに戻り、いけにえをささげ、起った出来事を人々に話したのでしょう。その後、嵐の中、海に投げ出されたヨナが帰ってきた。この出来事は当時の大事件。ヨナは時の人となったでしょう。あの事件の人、ヨナの語る言葉なので、ニネベの人々は悔い改めた。このように考えると、一度、使命を放棄してタルシシュへ逃れようとしたことも、重要な意味があったと読めます。

 

 ところが、ニネベに裁きが下らないということに対して、ヨナは激怒したと言います。

 ヨナ4章1節~4節

ところが、このことはヨナを非常に不愉快にさせた。ヨナは怒って、主に祈って言った。『ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。主よ。今、どうぞ、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましですから。』主は仰せられた。『あなたは当然のことのように怒るのか。』

ここに来て、ヨナの思いがより明らかになります。アッシリヤは、裁かれるべき。神様の赦しを受けるべきではない。だから、この働きはやりたくなかった。だから、行きたくないと言ったのに。アッシリヤを裁かれないというなら、私のいのちを取ってくださいとまで願う。

 ヨナからすれば、一度逃げ出し、嵐の中投げ込まれ、魚の中で過ごしたことが、本物の預言者のしるしとなり、その結果ニネベの人々が悔い改めたとすれば、最初からニネベに行っていれば良かったということになるのか。どうやっても、自分の考えではなく、神様の思い通りになることを、はっきりと教えられた状況。しかし、それが嫌だったのです。神様がニネベの人々を赦す、アッシリヤを救うということを、ヨナは受け入れられなかった。実に苦しいこと。神様の「あなたは当然のことのように怒るのか。」という言葉が印象的に響く場面となります。

 

 神様がなさることを受け入れられなく、命までとってほしいと願うヨナに対して、神様は何をされたでしょうか。それならば、好きなようにしたら良いとして、ヨナを見捨てたかというと、そうではありませんでした。なおもヨナに関わり、ご自身の思いを伝えようとされる。具体的に何をされたのか。ヨナ書の最後に記されているので、ご確認頂ければと思います。(その出来事を経て、ヨナがどのような思いになったのか、残念ながら記されていません。ヨナの思いが記されていないということにも意味があると思いますが。)

 

 以上、非常に有名な小預言書、ヨナ書を見てきました。神様の統治に納得がいかない。神様の御心は知りつつも、それを実現したくない。この点で、葛藤し、苦しんだ、ヨナの姿と、ヨナに対する神様の姿を見てきました。

 はっきりとしていることは、仮に私たちが、神様の支配を嫌がり、神様の御心が実現することに反対したとしても、それで神様が神をやめるわけでも、私たちが神になるわけでもないということ。それはつまり、私たちは神様の支配、神様の御心に対して、文句を言い続けるのか、それとも神様を神として、神様のなさることを喜ぶのか。どちらかの道しかないということです。

 

 聖書の中には、苦しい状況、厳しい状況の中で、神様の支配を喜び、御心に従うことを選ぶ信仰者の姿がいくつも出てきます。麗しく、お手本にしたい姿。しかし、神様の支配を喜べない、御心に従えない。葛藤し、苦しむ信仰者も出てきます。中でもヨナの姿は実に印象的。このような信仰者の葛藤、苦しみが聖書に記されていること自体、私たちにとって励ましとなります。

悲劇に直面した時。不条理な事態に見舞われた時。怒りや憎しみに心が覆われた時。父なる神が王の王であると頭で認めながら、その統治を喜べない、御心に従うことが出来ないと思う時。その葛藤や苦しみは、自分一人のものではないことを思い出したいと思います。また、そのような信仰者に対して、それでも神様は見捨てず、語りかけ導く方であることも覚えたいと思います。

 私たちの前には、二つの道。神様の支配、神様の御心に対して、文句を言い、反対し続けるのか。それとも神様を神として、神様のなさることを喜ぶのか。自分が中心でないとならないという罪の呪いから、イエス様は私たちを解放して下さいました。救われた者として、神の民として、神様のなさることを喜ぶ歩みを、私たち皆で送りたいと思います。

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