2017年2月5日日曜日

マタイの福音書6章11節「山上の説教(28)~日ごとの糧を~」


今日の説教は、イエス様が語られた説教の内最も知られた山上の説教の中にある「主の祈り」です。去年11月第一週の礼拝以降、待降節、クリスマスと続き、今年に入ってからは信仰の生活の基本について扱ってきましたので、久しぶりの山上の説教、主の祈りとなります。

日本語聖書で僅か11行。「天にいます私たちの父よ」と言う呼びかけに続く六つの祈願。この短くて、簡潔で、子どもでも容易に口ずさめる主の祈りには、キリスト教の世界観、人生観が凝縮されていると言われます。教会でも礼拝で祈ります。日々主の祈りをささげる人も多いでしょう。しかし、果たして私たちはどれ程その意味を考え祈っているでしょうか。

信仰生活に祈りは欠かせないと分かってはいても、祈りが苦手と言う人。何を祈ってよいのか分からないと言う人。忙しくて時間がないと言う人も、この短い祈りの意味をひとつひとつ味わうことで、祈りに親しみ、神様との交わりを充実させることができるのではないかと思います。

 主の祈りを祈ることで、神様に近づき、神様と親しむ。私たちがこの世界に生かされていることの意味を知る。神様の眼でこの世界を見るようになる。祈りと言えば、自分の願いが叶うための手段としか思っていなかった者が、主の祈りを学び、祈る内に、聖書の世界観、人生観に心の目が開かれ、神様の子どもとして成長してゆく。この様な祈りの生活を目指して、再び主の祈りを取り組みたいと思います。

 さて、主の祈りは「天にいます。私たちの父よ」と言う呼びかけで始まります。ここに、私たちの祈りの相手が世界の造り主であり、この神様を親しく天の父と呼び、話しかけることのできる幸いを確認できます。

また、前半の三つの祈りは「御名、御国、みこころ」と神様のための祈りでした。神様があがめられるように。神様の支配が実現しますように。神様のみこころがなりますように。イエス様が教えられたのは、神中心の祈りです。そして、今日からは主の祈りの後半。後半の三つは私たちの必要の為の祈りで、その最初が先程読んでいただいたことばです。

 

6:11「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」

 

「日ごとの糧」と言うことばは、「明日のための糧」とも言い換えることができます。当時、労働者や兵士に、翌日の分の食料として与えられたものを指すことばとも言われます。天の父なる神様に対し「明日のために必要な一日分の糧を、今日私たちに与えて下さい」と祈るよう、イエス様が明確に教えたことになります。

何故、「明日のために必要な分の糧」と限定されたのでしょうか。昔も今も、私たちは明日何が起こるかわからない不安定な世界に生きています。仕事、経済、健康等様々な面で、人間には明日のことが分かりません。ですから、私たちは先のことまで考え、できるかぎり糧を確保したいと願います。将来の安定を確保したいと言う思いを、誰もが抱いています。

勿論、将来に備えて保険に入ること、貯蓄することを、聖書は否定していません。むしろ、備えるべきことに備えるのは知恵ある生き方として勧められています。しかし、それも行き過ぎると、非常に危険な状態になることを、イエス様は警告してもいるのです。

 

マタイ631,32「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」

 

「心配する」と言うことばには「その人の心を独占する、支配する」と言う意味があります。将来の生活についての様々な心配で私たちの心が独占され、もっと大切なことが考えられなくなってしまう状態です。そして、イエス様が言うもっと大切なこととは、私たちの生活の必要を、今も将来も知っておられ、そのために最善の配慮をして下さっている天の父に信頼しないことでした。

イエス様が戒めた通り、私たちは神様を信頼していると思っていても、実際の生活の中で、将来への心配に心が支配されてしまう危険があります。私たちを子として愛してくださり、私たちの生活の必要を良く知り、配慮してくださる天の父の存在が消えてしまう。そんな心の状態に陥ることがあるのです。

だからこそ、イエス様は「明日のための一日分の糧を今日お与えください」と祈るよう命じました。この祈りによって、私たちが天の父に心を向け、明日のために最善の配慮をしてくださる神様に、日々信頼するよう勧めているのです。

イエス様の時代、殆どの労働者は日雇いでした。弟子たちにも裕福なものは少なく、多くの者は将来の生活の安定を確保するすべなど持ってはいませんでした。ですから、日々の糧を与えたまえと言う祈りは切実であったと思われます。それに対して、私たちはイエス様の時代の人々のような貧しい状態にはありません。祈らなくても、日々食べ物に困ることはありませんし、ある程度将来の保証を確保できていると言う思いもあります。神様に心から信頼しにくい時代です。

しかし、この様な時代だからこそ、私たちが生きてゆくのに必要な物を、日々本当に備えてくださるのは神様であることを自覚する必要があると思います。食べ物も着物も、経済も健康も、命そのものも、神様の配慮に支えられていることを思い、日々神様への信頼を新たにする必要があるのです。

次に、日ごとの糧の「糧」について考えます。この「糧」と言うことばは、元々「パン」を意味していました。パンが糧つまり食物の代表だったからです。しかし、私たちの生活に必要な糧は食物にとどまりません。

ルターと言う人がこう説明しています。「日ごとの糧とは、食べ物と飲み物、着物と履き物、家と畑と家畜、金と財産、良い家族、良い政府、良い気候、平和、健康、教育、良い友人、信頼できる隣人などである。これらが日ごとの糧に含まれる。」

私たちは時間を取って、神様がどれ程私たちの生活のため配慮してくださっているかを考える必要があると思います。私たちの多くは町に住んでおり、農業に携わっている人はあまりいません。しかし、実際に農業に携わっている方がおられるので、私たちは日ごとの糧を手にすることができます。作物が実るための天候や土地、水などの環境を守り、働く人々の健康を支え、働きを祝福しておられるのは神様です。

さらに、私たちは各々仕事から得る収入によって日ごとの糧を得ていますが、これにも多くのことが関わっています。神様は私たちが仕事を為すための健康を支え、仕事に必要な能力も備えてくださっています。私たちが収入を得ることができるのは、神様が私たちの社会を安定したものとして保っていてくださるからです。

今日では、世界大の規模で人間の欲望が噴出し、環境破壊や戦争など、悲しむべき現実が至る所で見られます。しかし、それでもなおこの様な世界で生きることができるのは、神様がこの罪の世界を導き、守っておられるからだと、聖書は教えているのです。

イエス・キリストを信じた私たちは、世界をこの様に見る信仰の目を与えられました。皆様は、日ごとの糧を神様の恵みと考えているでしょうか。それらの糧を受け取るに値しない者たちに対する神様の贈り物と考えているでしょうか。それとも、受け取って当たり前のものと考えているでしょうか。

イエス様によって私たちは、日ごとの糧を受け取って当たり前のものではなく、神様の恵みと見る信仰の目を開かれました。私たちは、日々の食物、健康、家族、良き友人、社会で働く人々の存在を通して、日ごとの糧を与えて下さる天の父を喜ぶことができます。日ごと受け取る糧の背後に、どれだけ神様の配慮があるのかを思い、神様に感謝するのです。

かって私たちは手にした物質や金銭にのみ目を向け、他の人と比べて大いの少ないのと不平不満をこぼす者でした。様々な心配事に心が支配される者でした。しかし、イエス様により、自分などには勿体ない様な神様の恵みとして、日ごとの糧を受け取る者、感謝で心満ち足りる者へと生まれ変わったのです。

そして、その様な生き方において、さらに成長してゆくため、私たちはこの祈りによって、一日の終わりに神様から受け取った恵みを数えたいと思います。神様を喜び、神様に感謝をささげる歩みを続けてゆきたいと思うのです。

最後に考えたいのは、どの様な願いを込めて、「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と言う祈りをささげるべきかということです。旧約聖書の箴言に、アグルと言う人の祈りが記されています。

 

30:7~9「 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

 

アグルが神様に祈ったことは二つありました。二つと言うのは箴言の独特な表現で、同じことを別のことばで言い表し、その真理を強調しています。

一つは、不真実と偽りとを私から遠ざけてくださいと言う願いです。積極的に言いますと、自分が真実に生きられるようにと言う願いです。

二つ目は、貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために、と言う願いでした。

私に定められた分の食物で私を養って下さい。このことばが「日ごとの糧を与えたまえ」と言う主の祈りに重なってきます。注目したいのはその理由です。「あなたを否み、主とは誰だと言わないために」からは、神様を畏れず、神様を信頼しないような生き方はしたくないと言う願いが伺われます。もう一つは、隣人のものを盗むことによって、神様の御名を汚すような生き方はしたくないという願いが示されています。

二つとも消極的な表現です。しかし、これによって、アグルが神様を畏れ、信頼する生き方、神様の御名があがめられる様な生き方を、真剣に、心から願っていることがわかります。そして、その様な生き方を妨げるものを避けたいと思い、そのために貧しさも富も私に与えず、定められた分の食物つまり日ごとの糧で養って下さいと、神様に祈っているのです。

アグルは心の中に、貧しさが自分を盗みに走らせる弱さがあることを自覚していました。富が心の中から神様への畏れと信頼を取り去ってしまう危険があることをわきまえていました。だからこそ、貧しさも富も与えず、神様が定め、与えて下さる分の糧で養ってほしいと祈ったのです。

これとは、対照的な生き方をした人についての例え話を、イエス様が語っています。

 

ルカ12:1521「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

この金持ちの愚かさとは、畑の豊作を神様の恵みと認めないこと、全ての富を自分のために蓄えようとするその心から神様への畏れや信頼、隣人への配慮が失われていることです。アグルが恐れていたのは、この男の様に、富によって心が占領され、神様への信頼を忘れること、富が神様のみこころに従う生き方を邪魔することだったのです。

果たして、私たちが神様に金銭、食物、家、健康など、生活に必要な糧を祈り求める時、願うのは自分が富む者となるためでしょうか。それとも、神様に信頼し、隣人に仕えることことでしょうか。自らの心に問いながら、主の祈りを祈る者でありたいと思うのです。今日の聖句です。

 

30:7~9「 二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、「【主】とはだれだ」と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」

0 件のコメント:

コメントを投稿