2016年7月17日日曜日

「一書説教 アモス書 ~選び出された者として~」


世界をどのようなものと観るのか。「世界観」によって、その人の生き方は変わります。偶然の積み重ねの果てに今の世界があるとして生きるのか。世界を創り支配されておられる方がいるとして生きるのか。違いがあります。この地上での生涯が全て死んだら終わりと考えるのか。この地上での生涯の後に、永遠の世界があると考えるのか。違いがあるのです。

 聖書に触れ、創造主を知り、キリストを信じることで、私たちの世界観は変わります。何のために生きているのか分からない、人生の目標は自分で定める生き方から、私たちの人生には神様の目的がある、生きる理由が明確になる人生となる。いかに自分が中心となれるか、自己中心を追い求める生き方から、いかに世界に仕えることが出来るのか、神中心を目指す生き方となる。キリストを信じる信仰によって、私たちは大きく変わります。

 

 しかし、キリスト教信仰を持っていても、いつでも聖書の世界観に立って生きられるかと言えば、なかなかそうはいきません。神様が望まれること、聖書から考えて正しいと思うことを、選べないことがあります。間違っていると思いながら、悪に走ること。怒りや憎しみの感情に支配されること。そもそも、何が聖書的なのか、何が正しいのかよく考えないこともあります。

 忙しい毎日を生きる私たち。朝起きたら、あとは一日のスケジュールを必死にこなし、夜を迎える。神様が私に願っていることは何か。今日、どのように生きるべきなのか。よく考えないまま、あっという間に一週間が過ぎることがあります。

 

 キリストを信じる私たちは神の民。世界を祝福する使命が与えられています。人間のあるべき生き方を示す。どのように神様を愛し、どのように隣人を愛するのか、私たちを通して世界中の人が知るようになる。

 私が救われたのは、私が幸せになるためだけではない。救われた私が、今日生かされているのは、神の民の使命を果たすためでした。今一度、この礼拝の時、神様が私にどれ程大きな使命を与えられているのか。どれ程大きな期待をされているのか。再確認し、神の民として生きる決意を新たにしたいと思います。

 

聖書の中、一つの書を丸ごと扱う一書説教。断続的に行ってきましたが、今日は三十回目。旧約聖書第三十の巻き、アモス書です。

 預言者アモスが活躍したのは(ヤロブアム二世という王の時代)国が政治的に安定し、経済的に繁栄した時代。それは信仰よりも政治や経済を優先させることへつながります。何が真実か、何が正しいかよりも、豊かさが追求された時代。物質的繁栄は道徳的腐敗に通じ、偶像崇拝、貧者圧迫が時代の特徴となります。

 神の民が、与えられた使命を果たそうとしなかった時。世界を祝福する使命は忘れ去られ、経済的繁栄を追い求める風潮が蔓延した時代。使命を思い出すようにと遣わされた預言者アモスの言葉を、今日は確認することになります。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めるという恵みにあずかりたいと思います。

 

 それでは、この書の中心人物、預言者アモスは、どのような人だったでしょうか。預言者として大きな特徴がありました。

 アモス7章14節~15節

アモスはアマツヤに答えて言った。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた。ところが、主は群れを追っていた私をとり、主は私に仰せられた。『行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。』と。

 

 当時、預言者として一般的に認められるのは、神殿の働きに就いている人か、預言者の仲間に属している人でした。ところがアモスは、羊飼い(牧者)であり、農夫。宮仕えの者ではなく、預言者仲間に属しているわけでもないといいます。(今の私たちの感覚で言えば、教会で仕えたことも、神学校で学んだこともないけれど、牧師の働きをしているという状況に近いでしょうか。)神様から預言せよと言われたので、預言者の働きをした人。

 神様からの使命を受け取った時、アモスはどのように思ったでしょうか。奮い立ったのか。戸惑ったのか。怖気づいたのか。残念ながら心情は聖書に記されていなく分かりませんが、与えられた使命を果たそうとしたことは分かります。神の民が、その使命を果たさず、自分中心の生き方に走っていた時、アモスは自分に与えられた使命を果たそうとした。信仰者として見習いたい姿です。

 羊飼いであり農夫であるアモス。語ることから縁遠い人。その言葉は、朴訥とした、粗野な語り口調かと想像するところですが、実際にアモス書を読んでみますと、その語り口調は雄弁で洗練されたものであることに驚きます。小預言書随一の文学的に巧みな書です。召しに応じたアモスに、その働きに相応しい力が与えられたということでしょうか。

 

 その預言の多くは警告です。使命を果たさず、悪に走る神の民に、悔い改めるように。そのままでは、大きな裁きが下されるとの警告。しかし、警告の仕方にも、技巧が凝らされています。

 アモスが主に語った相手は、イスラエル王国が南北に分裂した後の北王国。北イスラエルに対して。しかし前半、語り始めは諸外国に対しての審判の言葉からとなります。

 

 アモス1章3節

主はこう仰せられる。「ダマスコの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが鉄の打穀機でギルアデを踏みにじったからだ。

 

 「〇〇の犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない」という表現が繰り返されます。最初にダマスコ(アラム)、続けてガザ(ペリシテ)、ツロ、エドム、アモン、モアブと続き、さらには南ユダまで。北イスラエルを取り囲む近隣諸国に対して、どの国もひどい悪を行い、神様の裁きを免れないとの宣言が繰り返されます。

 北イスラエルの人たちが、この宣言を聞いた時、どのような思いになったでしょうか。あいつらは裁かれて当然として裁きの宣告に胸をすかせて拍手を送ったでしょうか。他の人の悪は非難しやすいものです。

ダビデ王が、自分の欲望を満たすために人妻バテ・シェバを呼びつけ姦淫を犯し、夫ウリヤを激戦地に送り込み殺し、この一連の出来事を隠そうとした時。姦淫、殺人、偽証と三大悪に走った時、預言者ナタンは、はじめに例話をもって警告しました。金持ちが自分の羊を惜しんで、貧しき者が大切にしている羊を奪ったという話。ダビデはその話を聞き、その金持ちは死刑だと宣告するも、ナタンはあなたこそ、その男だと切り返しました。ダビデ王に対するナタンの警告の仕方と、北イスラエルに対するアモスの警告の仕方は、類似しているように思います。

 まずは近隣諸国に対する裁きの宣告。しかし狙いは北イスラエルの民。興味を惹きつけ、聞く耳を持たせ、返す刀で本命の北イスラエルを切りつける。警告の仕方にも技巧が見られるのです。

 

 それでは北イスラエルへの宣告とはどのようなものだったでしょうか。

 アモス2章6節~8節

主はこう仰せられる。「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金のために正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。彼らは、すべての祭壇のそばで、質に取った着物の上に横たわり、罰金で取り立てたぶどう酒を彼らの神の宮で飲んでいる。」

 

 アモスによって糾弾される北イスラエルの中心的な悪は、貧しい者、社会的弱者が虐げられていたこと。(同時代、同じ北イスラエルで預言するホセアと比べると、特徴がよく分かります。ホセアの主なメッセージは、宗教的姦淫、偶像礼拝の問題でした。対してアモスは、罪の糾弾の中でも社会悪、不正に対するものが多く扱われます。)貧者圧迫、弱者虐待ということ自体、神の前に裁かれるべき悪でしたが、神の民がこのような悪に走るというのは、与えられた使命を果たさないという意味もあります。何のために生きているのかを忘れ、経済的繁栄の波に乗り遅れないように必死になる北イスラエルの姿は、実に現代的な気がします。

 この警告を皮切りに、アモス書の中盤は、北イスラエルへの警告、断罪の言葉が続きます。(3章から6章では、北イスラエルの民に対する直接的な語りかけが中心。7章から9章の前半まで、幻による預言の言葉となり、大きく雰囲気が変わります。)

神の民がその使命を果たさない時、神様はどれ程悲しまれているのか。そのような神の民に、どのように声をかけられるのか。あの手この手と、技巧を凝らして語り続けるアモスの警告を、かつての北イスラエルの人たちに語られた言葉として読むだけでなく、今の私たちにも語られている言葉として読み進めたいと思います。

 

 中盤の警告、断罪の箇所で、特に有名で印象的な箇所をいくつか押さえておきたいと思います。一つは懲らしめの意味が語られる箇所。

 アモス4章6節

わたしもまた、あなたがたのあらゆる町で、あなたがたの歯をきれいにしておき、あなたがたのすべての場所で、パンに欠乏させた。それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった。――主の御告げ。――

 

 神の民がその使命を果たさない時。神様は預言者を送り、立ち返るようにと呼びかけます。しかし、それだけではない。懲らしめを通して、立ち返るようにともされる。それも一回の懲らしめだけではない。ここで言われるような、飢饉による懲らしめ。更には、干ばつ(7、8節)、穀物の病気といなご(9節)、疫病と戦争による被害(10節)、町が破壊される(11節)懲らしめがあったと語られますが、しかし、「それでも、あなたがたは、わたしのもとに帰って来なかった。」という残念な結末。

私たちは大丈夫でしょうか。日々の生活のあらゆる場面を、神様との関係で受け止める信仰を持てるようにと願います。せっかく神様が用意された懲らしめを無視することのないように。その時には痛く、避けたいと思うことが、神の民としての取扱いの故であるということがあるのです。

 

 次の言葉も有名であり印象的です。

アモス5章21節~24節

わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。公義の水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。

 

 神様が礼拝を嫌うという言葉。強烈です。このような言葉に触れると、果たして私のささげている礼拝は、神様に喜ばれるものだろうかと心配になります。

 アモスは、礼拝の時だけではない。神様に心を向けるだけではない。日々の生活の中で、正しく生きること、隣人に目を向けることの大切さを訴えます。悪から離れることなく、それでも礼拝を続けていれば安泰ではないと言うのです。正義を行わない。隣人を愛さない者の礼拝を、神様は退けられる。使徒ヨハネの「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。」(Ⅰヨハネ4章20節)という言葉が思い出されるところ。

 

 他にも有名、印象的な言葉は多数。是非とも、あれもあった、これもあったと確認しながら、アモス書を読み進めて頂きたいと思います。

 その殆どが警告、裁きの宣言のアモス書。それも後半に進めば進むほど、神の裁きは避けられないものと展開していきますが、最後の最後で、励まし、希望の言葉が語られアモス書は閉じられます。

 アモス9章11節、15節

その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す。

『わたしは彼らを彼らの地に植える。彼らは、わたしが彼らに与えたその土地から、もう、引き抜かれることはない。』とあなたの神、主は、仰せられる。

 

 神の民が使命を果たさない。預言者が送られ警告が告げられ、繰り返し懲らしめも与えられ、それでも悪から離れない。その結果、より強大な裁きが下されるも、しかし決定的に神の民がいなくなることはない、というのです。神様は世界を祝福する使命を与えた者たちを、この世界に送り続けるという宣言。この宣言の延長に、私たちがいると見ると、アモス書がグッと身近になります。

 

 以上、簡単にですがアモス書を読む備えをしました。神の民として選び出された者たちが、その使命を果たさない時。神様はその神の民を見捨てるのではなく、預言者を送り、使命を思い出すように。選び出された者として生きるようにと、警告を発します。

 それでは、神の民は預言者の言葉を聞きいれたでしょうか。アモスが、北イスラエルに最初の語った言葉は次のようなものです。

 

アモス2章10節~12節

「あなたがたをエジプトの地から連れ上り、荒野の中で四十年間あなたがたを導き、エモリ人の地を所有させたのは、このわたしだ。わたしは、あなたがたの子たちから預言者を起こし、あなたがたの若者から、ナジル人を起こした。イスラエルの子らよ。そうではなかったのか。――主の御告げ。――それなのに、あなたがたはナジル人に酒を飲ませ、預言者には、命じて、預言するなと言った。」

 

 奴隷であったエジプトから救い出され、約束の地が与えられ、神の民として選び出されたイスラエルの子ら。救い出されたこと、選び出されたことを忘れる時には、預言者が送られてきた。しかし、その預言者には、預言するなと命じたと言います。ひどい状態。

 しかし、それでもここに、神様はアモスを預言者として立て、送られたのです。私たちの神様は、神の民を見捨てないお方。アモスを通して、警告を発し続け、大きな裁きが起こるとしても、神の民がいなくなることはないと励ましまで与えられる。アモスを通して、何とか神の民を導こうとされる神様の情熱が見えます。

 これが私たちの神様。今朝、アモス書を通して、私たちの神様は、私たちを見捨てないお方と受け取ります。キリストによって神の民とされた私たち。しかし、救いの喜びを忘れ、与えられた使命を放棄し、預言者に預言するなと言うがごとく聖書から遠ざかろうとする時。何とかして、選び出された者として生きるように、神の民として生きるように、私たちを導くお方がいること。この神様だからこそ、今も信仰者として生きることが出来ているのだと再確認します。この礼拝と、アモス書を読むことを通して、私たちに対する神様の情熱と期待を再確認し、今一度、選び出された者として、神の民として、それぞれの生活の場で与えられた使命を果たしていく決心を新たにしたいと思います。

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