2016年7月24日日曜日

マタイの福音書5章43節~48節「山上の説教(19)~自分の敵を愛し~」


イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて19回目となります。今日は「自分の敵を愛せよ」とイエス様が説く所。いわゆる愛敵の教えの登場です。

ところで、皆様は自分の敵と聞いて、ピンとくるような人を思いつくでしょうか。その様な存在はちょっと考えつかないと言う人は恵まれた環境にあると思います。もし、自分には敵がいると明確に感じている方がいるなら、その苦しみはいかばかりかと思わされます。

しかし、敵と言うことばを、イライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く対象と置き換えるならどうでしょうか。思いの他、身近なところに敵がいることに気がつかれるのではないでしょうか。

昔々美しい女王様がいました。女王様はひとりの女の子を生みました。その女の子の肌は雪のように白かったので白雪姫と名づけられました。ご存知、グリムの童話「白雪姫」です。

女王は自分よりも美しい人がいることに我慢できません。彼女は不思議な鏡を持っていて、その鏡の前に立って「鏡よ鏡。この国で一番美しいのはだれか」と尋ねます。すると、鏡は「女王様。この国で一番美しいのはあなたです」と答える。これを聞いて女王は満足する。鏡は本当のことしか言わないのを知っていたからです。

しかし、白雪姫がすくすくと成長し、美しくなったある日のこと。女王が鏡の前に立って、「鏡よ鏡、この国で一番美しいのはだれか。」と尋ねると、「女王様、この国で一番美しいのはあなたです。けれども、白雪姫はあなたより千倍も美しい」と鏡は答えました。女王はこれを聞いた女王は怒りと妬みに悩まされ、白雪姫を見るたび腸が煮えくり返る思いになる。とうとうじっとしていられず狩人を呼んで、娘白雪姫の殺害を命じるという物語でした。

グリムの物語は極端な例かもしれません。しかし、人間がいかに自分勝手な理由で人を敵と見るか。自分の身近なところに敵がいるものかがよく伝わってきます。

遠い国よりもお隣の国。よく似た文化や習慣を持つ民族同士。赤の他人よりも家族や親族、友人や同僚。教会の兄弟姉妹。私たちがイライラした気持ちや怒りを向けやすい相手は、思いのほか身近にいるものではないでしょうか。

「お兄ちゃん。よくもぶったわね。あたしも仕返しさせて。」と妹がぴしゃりと叩く。そうすると、お兄ちゃんはお兄ちゃんで、「そんなに強くは叩かなかったぜ。よし、二倍にしてやる、三倍にしてやる」と言い、ますますやる。私自身も経験した兄弟喧嘩です。あの瞬間、私は妹の敵、妹は兄の私にとって敵でした。

反抗的な態度を繰り返す子どもは、その瞬間親にとって敵。ひどいことばで自分を責める夫は、その瞬間妻の敵。無責任な行動を繰り返す妻は、反省の態度を示すまで夫の敵。自分の悪口を言い触らした友人も仲直りするまでは、私たちにとって敵と言えるかもしれません。

いずれにしても、今日のことば。一瞬にせよ、長い期間にせよ、自分がイライラした気持ちや怒り、赦せないと言う思いを抱く相手に対し、私たちはどの様に反応てきたか。どう応答するようイエス様は教えているのか。この点を意識して読み進めてゆきたいと思います。

「自分の敵を愛しなさい」。有名な愛敵の教えは、イエス様が旧約聖書の律法を引用し、それを歪めて解釈していた律法学者パリサイ人の教えを正し、律法の真の意味を説き明かすという段落の第六番目に登場してきます。

 

5:43,44「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」

 

旧約聖書を開きますと、確かに「あなたの隣人をあなた自身の様に愛しなさい」(レビ1918)とあります。しかし、その後に「自分の敵を憎め」とはどこにもありません。それでは、何故律法学者やパリサイ人は「敵を憎め」と言う教えを付け加えたのでしょうか。

背景にあるのはイスラエル民族の苦難の歴史です。イスラエルが国家として最も繁栄したのはダビデ、ソロモン二代にわたる王様の時代。あとは、多少栄えた時代はあるものの、基本的には周辺諸国の侵略に苦しみ、遂に国は滅亡。人々は捕囚の民としてアッシリヤ、バビロンに移されました。漸く帰還を許されたものの、ギリシャ・ローマと大国に支配され、迫害に苦しみます。聖書の神を知らない異邦人を「犬」と呼んで蔑み、敵視すると言う形で民族のまとまり、アイデンティティーを保ってきたのです。

特に、先祖は同じであるのに、異教の影響を受けたサマリヤ人に対するユダヤ人の憎悪は激しく、両者は犬猿の中にありました。ですから、律法学者パリサイ人の言う隣人とはユダヤ人を、敵とはサマリヤ人および支配国のローマ人を指していたのです。

しかし、これはイエス様の時代のユダヤ人だけの問題ではないように思われます。すべての人を隣人とすることができず、敵を作ろうとする性質は私たちの内にもあります。考えが合わない人は無視したり、避けたりする。一旦心を閉ざすと、敵視して冷たい態度を取り続ける私たちもユダヤ人と同類ではないでしょうか。

しかし、その様な私たちに、イエス様は「自分の敵を愛しなさい」と言われる。敵を愛するとはどういうことなのでしょうか。敵を好きになれと言うことでしょうか。それとも、敵と仲直りせよと言うことでしょうか。

この教えの意味を考える上で参考にあると思われるのが、「善きサマリヤ人のたとえ」です。「私の隣人とはだれですか」と質問したひとりの律法学者に対し、敵対するサマリヤ人が道に倒れていたユダヤ人を助けると言う、当時の現実としては稀にしかなかったであろう出来事を譬えとし、イエス様が隣人愛の真髄を教えておられます。

 

ルカ10:3037「イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。

ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』

この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」」

 

想像してみてください。傷ついたユダヤ人に対し、サマリヤ人が好意を抱いたとは考えられません。敵対するユダヤ人を助けることに心の葛藤があったとしても当然です。同胞である祭祀やレビ人でさえ関わりになるのを嫌がった程の重体でした。サマリヤ人が自分に助ける義務はないと考えたとしても不思議はありません。

しかし、サマリヤ人はユダヤ人の苦しみを見るに見かねて、自分がなしうる最善の助けをささげました。彼は助けたユダヤ人と言葉を交わすこともなく、翌日旅立ったように見えます。そして、イエス様は三人の中でこの人が強盗に襲われた者の隣人となったと言われ、「あなたも同じようにしなさい」と締めくくっているのです。

つまり、隣人を愛するとは、相手が好きであろうと嫌いであろうと、たとえ相手から感謝されようがされまいが、苦しむ者のために自分がなしうる最善の行動を選択すること。これがイエス様のメッセージでした。

現代の多くの人々にとって、愛は好きと言う感情と同じものと考えられています。しかし、イエス様は、ここで愛イコール好きと言う感情ではない、二つは別ものと教えています。

勿論、好もしい人、親しみを感じる人を助けることは、実行しやすいことですし、その様な関係は私たちにとって大きな恵みです。しかし、嫌いな人を好きになることが愛だとしたら、それは非常に難しい目標ではないかと思います。何故なら、私たちには嫌いと言う感情を好きと言う感情に、憎しみを好意に変えることはできないからです。 

しかし、神様の愛を心に受け取るなら、相手に対する感情や相手の態度に関わらず、苦しむ人のために自分がなしうる最善の態度や行いを選ぶこと。つまり、態度や行いを変えることは可能。これが、イエス様を信じる者に与えられた「愛する自由」と言う恵みなのです。

 

5:45「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」

 

イエス様を信じる者は、神様が天の父であり、自分はその子どもであることを知っています。天の父が信じる人にも信じない人にも同じく自然の恵みを与え、養っておられることを知っています。そうだとすれば、神様の子どもである者は天の父と同じ愛で人々と接してゆくがよい。このイエス様の教えを、心に刻みたいところです。

続くところでも、神様の子どもとして私たちの愛がどのようなものであるべきか。相手との関係が良好であってもそうでなくても、自分から愛を示すことの大切さが教えられます。

 

5:46~48「自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」

 

収税人は、当時ユダヤ人同胞から税金を搾取し、富を築いていた社会の嫌われ者。自己中心的な生き方の代表者としてあげられています。異邦人とは、聖書の神様を信じない人々のことです。

収税人でも自分を愛してくれる人は愛するし、異邦人でも挨拶をしてくれる人には挨拶を返す。しかし、あなた方天の父の子どもの愛はその様に相手の態度や行動次第のものであってはならない。天の父が完全なように完全であれ。そうイエス様は言われるのです。

完全とは「成熟」とか「成人」と訳す方が良いことばとも言われます。確かに、完全と言われると罪のない状態、怒りや憎しみを全く覚えない状態を思い浮かべますから、個人的にも「成熟」あるいは「成人」と訳したほうが良いかと思います。

このことについては次回改めて考えてゆきたいと思っています。今日は、天の父の様に相手の態度に左右されない愛が、神様の子どもには恵みとして与えられていること、私たちはその様な愛を目指して歩むべき者であることを押さえておきたいと思うのです。

最後に、実際に愛において成長、成熟するために心に留めておくとよいことを、二つお勧めします。ひとつめは、すぐに理想的な状態を目指すのではなく、自分ができることから実行して行くことです。旧約聖書に隣人愛の一例としてこの様な教えがあります。

 

出エジプト235「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」

 

この状況、分かりますでしょうか。私たちの生活にも似たようなことがありそうです。相手は自分を憎んでいる人ですから、こちらにとっても嫌な相手。「それを起こしてやりたくなくても」と言う気持ちはよくわかります。けれども、たとえロバの持ち主は嫌いでもロバに罪はない。同じ町同じ村に生活する者として、荷物の下敷きになって苦しむロバ、貴重な家畜を助けるのは共同生活における最低限のルールとも考えられます。

自分を憎む人は自分を傷つける可能性がある人ですから、安心して近づくことはできません。そういう場合はすぐに仲直りしようと考えず、相手が困っている時には手を差し出すという愛し方から始めればよいと教えられます。そこから初めて、相手のために祈る、出会った時には挨拶を交わすなど、できることを少しずつ増やしてゆくのです。

そうした実践が、心の中にある怒りや苦々しい思いを徐々に取り去り、相手の幸いに対する関心を深めてゆく助けになるのではないでしょうか。私たちは相手を変えることはできません。しかし、自分にできる愛を実行することは私たち自身を変えてゆくのです。

二つ目は、この様な努力を神様との恵みの関係の中で継続することです。私たちの努力は常に報われるとは限りません。相手が責めてくるのに腹を立てて言い返したり、やり返してしまうこともあるでしょう。もし、神様の赦しの恵みと言う支えがなかったら、私たちは自分の罪と無力に失望するしかないのです。

しかし、聖書はイエス様を信じる者の罪は完全に赦されており、神様の愛は、私たちがどんな酷い罪を犯しても変わらないと保証しています。自分を変えることは長い時間がかかる作業です。何度でも心に涌いてくる怒りや、自分の弱さを受けとめ、試行錯誤を繰り返しながら、取り組み続けることです。私たちが皆、神様と心から安心できる恵みの関係にあることを信じ、与えられた愛を実践し、育てる歩みを進めてゆきたいと思います。

 

エペソ431,32「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」

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