2016年7月10日日曜日

マタイの福音書5章38節~42節「山上の説教(18)~あなたを告訴して~」


19世紀後半、中国で活躍した宣教師の一人にハドソン・テーラーがいます。テーラーは宣教団体を設立し800人の宣教師を養成し、125の学校をつくり、18000人もの人をキリスト教信仰に導きました。非常に有名な宣教師です。

テーラーは、当時の宣教師としては極めて稀なことでしたが、現地中国人の服を愛し、常に着用していたそうです。ある日の夕方、テーラーが岸辺に立って、向こう岸まで渡るため小舟に呼びかけると、小舟が近づいてきました。そこに中国人の金持ちが割り込み、中国服を着ていたみすぼらしい男が宣教師であるとは気がつかず、待っていたテーラーを押しのけたため、テーラーはぬかるみに落ち、服がどろどろに汚れてしまいます。

金持ちが小舟に乗り込もうとした時、船頭が「いや、この外人さんが先に私を呼んだのです。だから、この人が先に乗る権利があります」と拒むと、金持ちは自分のしたことに気がついて非常に驚きました。しかし、テーラーは苦情も文句も一言も口にせず、彼を招いて一緒に船に乗せたのです。

侮辱的な取り扱いに対し憤慨することもできたテーラー。しかし、テーラーは自分にこの様な行動をさせたものは一体何であったのか。それは、自分の力ではなく、心にある神様の恵みであることを船の上で話し、その証が金持ちの魂に深い影響を与えたと言うエピソードがあります。テーラーが、語ることばだけでなく生き方を通しても、神様の恵みを人々に示していたことを確認できるエピソードです。

 

5:39「…あなたの右の頬を打つような者には、左の頬をも向けなさい。」

 

これは、聖書を開いたことのない人でも知っているほど、有名なことばです。イエス様の時代、人が受ける侮辱の中でも最大のものとされ、この様な行いをした者は罰金を支払うことを命じられたとさえ言われる、頬を平手で打つと言う行為。このような侮辱に対して、復讐心をもって応じてはならないことを、イエス様は教えられました。

兄弟喧嘩に親子喧嘩、夫婦喧嘩。地域、職場、学校における隣人、同僚、仲間との争い。小さな子どもも大人も老人も、男も女も、言われたら言い返す、やられたらやり返す。自分はそうしたいし、そうする権利がある。人間社会の至る所に見られる復讐心。一度捕まったら、簡単には逃れられない心の病。この復讐心からの解放について、私たちは先回の説教で学びました。

イエス様が故郷ガリラヤの山で語られた説教、山上の説教を読み進めて、今日で18回目となります。山上の説教は「幸いなるかな」で始まる八つの言葉、八福の教えで始まっています。ここには、イエス様を信じる者が受け取る八つの祝福が描かれていますが、中心にあるのは天の御国を受け継ぐこと。イエス様を信じる者は天の御国の民となると言う祝福です。

続く段落では「あなたがたは地の塩、世の光」と語り、天の御国の民はこの世の腐敗を防止する塩、神様のすばらしさを現す光として生きる使命があることを教えられます。

次に天の御国の民にふさわしい義、義しい生き方とは何かについて、イエス様は教え始めます。

最初は「殺してはならない」と言う十戒の第六戒、二番目は「姦淫してはならない」と言う第七戒、先回は「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」と言う第三戒に込められた神様のみこころを、説き明かされたのです。

そして、今日の個所では十戒ではありませんが、同じく旧約聖書に定められた律法、「目には目で、歯には歯で」に込められた神様のみこころを教えておられます。これまでの三つと同じく、この律法も律法学者やパリサイ人によって真の意味が歪められていたからです。

今日は主に40節から42節を取り上げ、私たちイエス・キリストを信じる者、天の御国の民の生き方を考えてゆきたいと思います。まず先回扱った内容を確認しておきます。

 

5:38,39「『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」

 

「目には目を、歯には歯を」という律法は、自分を傷つけた者に怒りを抱き、度を越えた仕返しを行うと言う風潮がイスラエルの社会を覆っていたことに対し、心を痛めた神様が定めたものでした。復讐心の制限、抑制を目的としていたのです。

しかし、イエス様の時代、人々から尊敬される律法学者、パリサイ人は、これを自分に対し侮辱を加えた隣人に対する復讐心の承認と考えました。言われたら言い返す、やられたらやり返す。自分はそうしたいし、そうする権利がある。その様な思いに駆られて行動することが正当化されたのです。

それに対しイエス様は、「わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」と語り、復讐心からの解放こそ神様の恵みであり、私たちに求められる義しい生き方と言われたのです。

反抗的な子どもの態度に腹を立て怒鳴る。配偶者の無責任な行動に憤慨し、これからは一切愛情を示すまいと決心し、心を閉ざす。身勝手な隣人の振る舞いに堪忍袋の緒が切れて、責め立てる。その様な場合、非は相手にあるのだから自分の態度には問題なしと、私たちも考えてきました。

その様な私たちがイエス・キリストを信じ、神様の恵みにより天の御国の民、神の子とされたのです。果たして、私たちの心は復讐心からどれ位解放されているのか。復讐心ではなく、神様の恵みに動かされ人に対応できているのか。一人一人、心に問われたところです。

さて、今日の個所でイエス様は、当時の人々が直面する可能性のある問題の中から、二つの例を挙げられました。復讐心からの解放だけではなく、もっと積極的に相手の求めに応じることを勧めているのです。

 

5:40,41「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」

 

下着と日本語に訳された物は、今日で言うワイシャツやTシャツ等。普通の服、上着です。上着と訳された物は、私たちが言う上着の上に羽織るオーバーのことです。

その頃、人々は上着を布団代わり、夜具としても用いていました。貧しい者にとっては二つと持てない貴重な生活必需品でした。ですから、旧約聖書は、貧しい者から上着を質にとる場合、日没までには返してやらねばならないと定めています。他方、下着は何着か持っているのが普通でしたから、借金の方として求められることが多かったようです。

この様な時代、イエス様は、下着を借金のかたに取ろうとする者には、あなたにとって大切な上着をも、気前よく与えてしまう程の姿勢で生きよ、と命じられたのです。相手の要求は下着であるのに、上着をも与えよと言われたイエス様。イエス様は、自分の上着を守る権利を捨て、相手の求める以上のものを与えよと勧められたのです。

これは、相手の権利よりも自分の権利を重んじる私たち。いや、自分の権利のことしか頭になく、自分の権利に固執しがちな私たち。時には、お互いに権利を譲らず、争い対立することすら辞さない私たち。そんな私たちの生き方への挑戦です。天の御国の民として、自分の権利にしがみつく様な生き方はふさわしくないとの教えでした。

ある姉妹が洗礼を受けた時のことです。姉妹は一日も早く洗礼を受けたいと思っていましたが、ご主人がなかなか納得してくれませんでした。ご主人が家の宗教のことなど考え、悩んでいることが分かっていた姉妹は、「あなたが納得できるまで考え、認めてくれた時に、私は洗礼を受けます」と伝えたのです。「一人の人間として、私には信仰の自由がある」と言って自分の権利を主張せず、ご主人の思い、ご主人の権利を優先したのです。その結果、ご主人も出席された礼拝で、姉妹は洗礼を迎えることができました。

これはどの様な夫婦の場合にも当てはまる行動ではないかもしれません。しかし、自分の権利を後回しにし、相手の思いや権利を大切にすると言う私たちの生き方が、相手の心に大きな影響をもたらす例ではないかと思います。「下着をも取ろうとする者には、上着をも与えよ」。イエス様が天の御国の民にふさわしいと示したのは、この様な生き方なのです。

また、「あなたに一ミリオン行けと強いる様な者とは…」と言う言葉は、古代社会においては良く行われていた慣習を指しています。国家はこの慣習に基づいて、人々を荷物の運搬のため徴用する権限を持っていました。

庶民にとっては実に迷惑なこと。特にこの時代、ユダヤはローマ帝国の植民地でしたから、ローマ兵士に労働に駆り出されることは人々に迷惑なばかりか災難。苦々しい思いで、嫌々応じる者も多かったであろうと思われます。それなのに、「一ミリオン行けと強いる様な者とは、二ミリオン行け」と、イエス様は語られました。

イエス様を信じる者が受け取る神様の恵みは、これ程に私たちを変え、人のために犠牲を惜しまぬ者へと造り変えるという祝福であり約束です。同時に、私たちが日々取り組むべき義しい生き方でもあるのです。

大学時代のクリスチャンの先輩の証です。私の先輩は家族でただ一人のクリスチャン。特にお父さんは浄土真宗の檀家、頑固なキリスト教反対論者で、息子が教会に行くことにも、聖書を読むことにも、勿論洗礼を受けることにも大反対しました。

しかし、すでに成人した息子の行動を力で制することはできず、あきらめたかと思いきや、様々な方法で日曜日の礼拝出席を邪魔し始めたのだそうです。日曜日の朝になると、「あれをしろ、これを手伝え」と言い出し、「礼拝に行くので、それはできない」と断ると、「お前は家族を大事にしないのか」となじられる。

ほとほと困り果てていた時に、この山上の説教のメッセージを聞いて、先輩はある行動に出ました。お父さんに「私にしてほしいこと、すべきことを、金曜日の夜までに教えてくれますか。そうしたら、土曜日の内にそれを行い、できない分は日曜日教会から帰ってきてから行います」と約束し、その通り実行し始めました。そればかりか、頼まれてもいないこと、日曜日の朝の食事のご飯とみそ汁を家族全員の分を作る事まで、行ったそうです。

ある日曜日、お父さんがそれまでの様に息子に命令を出そうとすると、さすがにお母さんがそれに抗議しました。「お父さん、私もキリスト教のことは難しくてよくわからないけれど、変わった息子の姿を見ると、キリスト教も良いもんだと思うし、教会にも行かせてあげたい気がする」と言い、先輩の味方についたのだそうです。

頑固なキリスト教反対論者の要求を聞き、それに応じたばかりか、自ら求められた以上のことを行うとする。「あなたに一ミリオン行けと強いる様な者とは、一緒に二ミリオン行け」。イエス様が私たちに求めているのは、この様な生き方ではないかと思われます。

そして、段落最後の言葉はずばり私たちの物に対する執着、所有欲に切り込んできます。

 

5:42「求める者には与え、借りようとする者には断らないようにしなさい。」

 

「求める者には与え、借りようとする者には断るな」と、イエス様は言われました。しかし、人を見ることなく与え、考えなしに貸すのが良い、と教えているのでないことは明白でしょう。詐欺師に与えることは愚かですし、怠けて働こうとしない人や浪費家に貸すことは助けにはなりません。

イエス様が問題にしているのは、所有欲のゆえに、真に必要を覚えている人を助けようとはしない私たちの生き方です。所有欲に満たされ、縛られているがゆえに、助けるべき人を見ても手を差し出すことのできない、不自由な私たちの心と行動なのです。

この説教、このことばをよくよく覚えていたのでしょう。弟子のヨハネは後に同じことを、次に様に人々に伝えています。

 

Ⅰヨハネ3:17、18「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

以上、自分の権利に固執する生き方、自分の所有物に捕らわれた生き方からの解放について、私たちは教えられました。自分の権利よりも相手の権利を優先する生き方、自分の願いよりも相手の願いを大切にする生き方、所有欲に縛られず、必要な人に与え、貸すことのできる生き方を選ぶことができる神様の恵み。この尊い恵みを頂いていることを確認できたのではないかと思います。

勿論、私たちは今すでにこの様な生き方が出来ているわけではありません。むしろ、いかに自分の権利にしがみついて人と争ってきたか。いかに、人の求めに応じて労苦することを嫌がり、拒んできたか。与える物を持ちながら、どれ程深く所有欲に捕らわれてきたか。その様な自分の姿を、これらのことばを通して示され、情けない気持ちがするばかりです。

しかし、イエス・キリストはこの様な私たちのために十字架に死なれ、罪の贖いを成し遂げてくださいました。イエス・キリストを信じる者は天の御国の民、神の子とされました。私たちは皆罪を赦され、罪の力から解放されるという神様の恵みを頂いたのです。

 

Ⅱコリント9:8「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」

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