2017年1月29日日曜日

ペテロの手紙第一4章7節~10節「信仰生活の基本(4)賜物~賜物の管理者として生きる~」


今日は信仰生活の基本をテーマとする礼拝説教の四回目。これまで礼拝、伝道、交わりを扱ってきましたが、今回のテーマは「賜物」です。

 今読んでいただいた聖書の個所にあるように、私たちイエス・キリストを信じた者は罪の赦し、永遠のいのちを与えられただけでなく、様々な賜物・恵みをも与えられたと言われています。

 

 410「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

 

 所有者と管理者は違います。賜物の所有者は神様。私たちは託された賜物を神様のみこころに従って管理活用する者です。神様のみこころとは何かと言えば、賜物を用いてお互いに仕え、助け合うことでした。

 ユダヤにあるガリラヤ湖は、山から流れる水を受け、それをヨルダン川に流して沿岸を潤しています。それ故に魚の種類も量も多く、生命あふれる湖です。それに対して、水を受け取るばかりで独り占め。他に水を流さない死海は魚も住めない湖、文字通り死せる海です。

 神様からの賜物を一人占めして、他の人を助けない死海になるなかれ。与えられた賜物を用いて他の人を潤し、助けるガリラヤ湖となれ。二つの対照的な湖は、自分が賜物をどう扱っているのか。ガリラヤ湖なのか死海なのか。私たちの生き方を問うています。

 ところで、聖書には「それぞれが賜物を受けている」とありますが、賜物と聞いて、皆様は何を思い浮かべるでしょうか。自分が与えられた賜物は、どのようなものだと考えているでしょうか。

 管理者に求められる第一のことは、自分の賜物は何かを考えることです。その際、お勧めしたいことがあります。それは、賜物について広く考えることです。聖書において賜物と言う時、その一つの意味は能力や才能です。しかし、所謂能力や才能に限られない、広い意味がこれには含まれていました。

 随分昔のことになります。妻と交際を始めたばかりの頃、妻は私の大好きな野球について殆ど知りませんでした。スター選手の名前も、打ったバッターが一塁に走るのか、三塁方向に走るのかさえ知らなかったと言う記憶があります。

デートの時、私が夢中で野球の話をすると、退屈そうな顔をする。それでも終わらないと不機嫌になる。雰囲気が悪くなる。そんなこともあった気がします。神様は、野球への関心、野球への愛と言う賜物を、子どもの頃から今に至るまで、私には非常に豊かに与えて下さいました。但し、若い頃の私は、その賜物を相手に押し付けると言う未熟さに気がつくことができなかったようです。

 しかし、皆様の中には、そんな賜物が何の役に立つのかと思う方もおられるでしょう。しかし、日本人の男性、特に私ぐらいの年代の人には野球ファンが多く、そうした人々と関係を築く際、共通の話題が役立つことを経験してきました。野球に関心がない人、野球嫌いな人など、相手を間違わない様注意すれば、こんな賜物も福音を語れる関係に近づく助けになると思います。

 また、私には三人の子どもがいます。皆独立しましたが、長男長女の性格について、子どもの頃の思い出があります。ある日、家族全員で外出する時のことでした。私が「時間が来たから、そろそろ出かけるよ」と声をかけると、長男は何の準備もしていない。それを注意すると「分かっている。ちゃんと間に合うから」と答えました。

それに対し、長女は自分の準備は既に完了済み。準備の遅い兄や弟、それに私や妻についても「これこれは大丈夫か」と声をかけ、家族を仕切っていました。

 長女には皆を仕切り、一つの行動に向かわせてゆく監督の様な性格が備わっています。長男は普段はゆったりマイペースですが、自分がしたいことが見つかるととことんやると言う性格を持っています。この様な性格も、神様が与えた賜物と考えられます。

 作家の三浦綾子さんは病気がちで、入退院を繰り返しながら作家として活躍し、多くの作品を世に出しました。それは今でも、人々に愛読されています。この三浦綾子さんが、自ら病んで人の痛みを知るとして、「病気も神様からの賜物」と書いています。

 神様が与えて下さる賜物は本当に様々です。学びや仕事で獲得した知恵、心や体の病など痛みの経験、身に着けた能力、生まれつき備わった性格、心から好きと感じ、情熱を傾けられること、さらには健康な体、金銭や物質、自由に使える時間も賜物と言えるでしょう。

今教会で必要とされている奉仕は何なのか。地域社会で求められている働きは何なのか。それらに応えるため、神様が自分に与えて下さった賜物は何なのか。私たちは広い視野で、それを考える者、考え続ける者でありたいと思います。

 次に、管理者として私たちが心得るべきことは、神様が賜物と言う恵みせを与えて下さった目的です。先程のガリラヤ湖と死海の例の死海ではありませんが、神様から離れた人間は、賜物を用いて他の人を助け、仕えると言う本来の目的を忘れてしまいました。

 このことに関して、イエス様のされた譬え話が聖書に残っています。

 

 ルカ121521「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

 

 このお話に登場する農夫には、豊かな財産と言う賜物がありました。畑を豊作にしたと言うのですから、農夫として勤勉、有能と言う賜物もあったと考えられます。しかし、惜しむらくは、それらの賜物を人生の安心を確保するためにため込むばかり。びた一文、他の人を助け、仕えるため活用しようとは考えなかった。これが、「愚か者」とイエス様に言われた理由です。

 死んでも尚有り余る程の財産を欲しがること。つまり、生きるのに必要以上のものを欲しがることを、イエス様は貪欲と呼び、これを戒めているのです。人がどん欲になる理由は様々です。この農夫の様に人生の安心を確保するためと言う場合もあるでしょう。あるいは、財産を使って他の人を自分の思い通りにしたい人、人の上に立つと言う名誉を得るために財産を貯める人もいるでしょう。そして、これは財産に限らず、他の賜物についても言えることではないでしょうか。

しかし、私たちがこの様な生き方から解放され、本来の賜物を使い方ができるように、イエス・キリストが罪を贖って下さったことを、聖書は教えています。

 以前ウィクリフ聖書翻訳協会の様子を見学に行った際、改めてこのことを感じました。ウィクリフは聖書翻訳宣教師の働きで知られていますが、そこには自らの賜物をささげる多くの人がいます。

元教員は現地で宣教師の子どもたちの教師として、大工さんは宣教師たちの住居建設や修理。ドライバーは運搬や移動。そうした賜物はなくとも、笑顔で人に接することができる人は事務所の受付に。さらに、そうしたことにも不向きな人は、印刷された聖書のページ合わせと言う必要不可欠な作業についています。しかも、これらの人々は定年になるか、仕事を子どもに譲って、年金生活に入ってからのボランティアでした。

まさに、神様の恵みの良い管理者として、互いに賜物を用い、仕えあっている麗しい姿がそこにはあったのです。

以上、賜物の管理者として、私たちが取り組むべきことを見てきました。自分の賜物が何かを広い視点で考える。賜物を神様のみこころに忠実に用いる。私たちひとりひとりが良い賜物の管理者として生きることが、教会をたて上げること、また、地域社会を良いものにしてゆくことにつながることを、この一年の始め、皆で心に刻みたいと思うのです。

 さて、もう一つ、今日の個所が教える大切なことに目を向けたいと思います。それは、心の管理です。良い管理者として歩み続けるために、私たちは自らの心を管理する必要があることを、ここに教えられるのです。

 

 4:79「 万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」

 

 ここで、私たちは「祈りのために心を整えなさい」と勧められています。これは「祈りによって心を整えなさい」とも訳すことができるとも言われます。どちらにしても、賜物を活用するにあたり、私たちが勧められているのは心を整えること、つまり、心を健やかにする、心の健康を守ることでした。

 それでは、心を整える、心の健康を守るとは、どういうことなのでしょうか。

 第一に、身を慎むことです。日本語で「身を慎む」と言うと、謹慎するなど消極的な生き方が思い浮かびます。しかし、元のことばでは、自分の限界をわきまえると言う意味になります。

私たちは、自分がしたいことをすべて出来る訳ではありません。すべきことをいつでもできる訳でもありません。能力においても、時間や健康の状態においても限界があります。それを自覚し、弁えておくことは非常に大切なことです。

 自分の能力を超えた奉仕、自由に使える時間内ではなしえない働きを引き受けて、心身ともに疲れ果てないようにする。与えられた能力、健康、時間を考え、奉仕を引き受けるかどうかを判断する。神様は私たちが背伸びをしたり、無理をしたりすることを望んではおられないおかたであることを覚えておくと良いと思います。

 第二に、「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい」とある様に、奉仕の動機が他の人に対する愛であることです。愛は、自ら進んで人に仕えることを望む心の姿勢です。もし、その奉仕を強いられたものと感じたり、周りの人の目に対する恐れがあるなら、それは心が健康ではないと言うサインです。

第三に、「つぶやかないで…」とある様に、奉仕の際、不平不満が出てくる心も良い状態とは言えないでしょう。特に、「こんなに仕えているのに、ちっとも感謝してくれない」とか「あの人のやり方はなっていない」など、人に対する批判的な思いや不平は、私たちを奉仕の喜びや感謝から遠ざけます。他の人との良い関係を妨げてしまいます。

これらの場合は、自分のことを認めてくれる人と交わる。神様と交わり、神様の愛に憩うことで、心を整える必要があるのではないかと思います。神様との交わり、安心できる人との交わりに助けられながら、私たちは教会においても、この世界においても、賜物を活用し、人に仕えてゆくことができるのです。

最後に、神に仕え、人に仕えたことで世界に知られるマザー・テレサの祈りを、ご紹介したいと思います。

主よ。今日一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために、私の手をお望みでしたら、今日私のこの手をお使いください。

主よ。今日一日、友を求める小さな人を訪れるために、私の足をお望みでしたら、今日私のこの足をお使いください。

主よ。今日一日、優しいことばに飢えている人と語り合うために、私の声をお望みでしたら、今日私のこの声をお使いください。

主よ。今日一日、人と言うだけでどんな人をも愛するために、私の心をお望みでしたら、今日私のこの心をお使いください。

今日の聖句を、ご一緒に読みたいと思います。

 

 410「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

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