2017年1月8日日曜日

詩篇95篇1節~11節「信仰生活の基本(1)礼拝~もし御声を聞くなら~」


今日は、2017年二回目の主の日の礼拝です。今年も50数回主の日の礼拝を私たちはささげてゆくことになりますが、毎週の礼拝をいかに充実させてゆくか。その為には、何をすればよいのか。皆様はその様なことを考えたことがあるでしょうか。

 ところで年末年始、野球好きな私は「球辞苑」と言う番組を楽しみにしていました。野球には多くのプレーがありますが、球辞苑はそうしたプレーの一つ一つについて、その意味、方法、極意と言ったものについて、名選手、個性的な選手のプレーを見ながら、楽しく語り合うと言う番組です。それも、ホームランとか三振など良く知られたものではなく、ピッチャーのクイックモーションやランナーの走塁のリードと言ったかなりマニアックなプレーを扱っていました。野球好きにはたまらなく面白い番組だと思います。

 また、山崎が野球の話かと思われる方がいるかもしれませんが、私はこの番組から一つのことを学んだ気がします。それは、プロの選手、それも一流と言われる選手であればある程、どんな小さなプレーについてもその意味をよく考え、自分のベストのプレーができるように、心も体も準備しておくと言うことです。毎試合そうした準備を繰り返すことで、プレーが良いものになってゆくと選手たちは語っていました。

 礼拝についても、同じことが言えるのではないでしょうか。毎週ささげる礼拝であるからこそ、繰り返しその意味を考え、心も体も礼拝用に準備して臨む。これが私たちの礼拝の充実、信仰生活の充実につながるのではないかと思うのです。

 今読んでいただきました詩篇95篇は、昔から多くの教会が礼拝の始めに読んできたものです。それは、この詩篇が私たちを礼拝へと招いているからです。今でも、礼拝の始めにこの詩篇を朗読する教会があり、人々を礼拝へと招く招詞、招きのことばとなっています。

 しかし、これは礼拝への招きで終わっている詩篇ではありません。旧約の昔の信仰者、私たちの先人が、礼拝することをどう考えていたのか。どの様な心の態度で礼拝に望んでいたのか。それを教えてくれる詩篇でもあります。

 先ず、聞こえてくるのは、喜びあふれる礼拝への招きのことばです。

 

95:1「さあ、【主】に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進み行き、賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。」

 

最初に「さあ」とあるのは、元のことばでは「行け」という力強い命令のことば。その後で、この詩篇は「喜び歌おう。喜び叫ぼう」「感謝の歌をもって」「賛美の歌をもって」神様に近づこうと、私たちに呼びかけているのです。神様に近づくことのできる喜びにあふれた人は賛美をささげます。今日の礼拝でも、招きのことばが読まれた後で、すぐ賛美が歌われます。

続くは感謝の祈りです。ここでは神様が「救いの岩」と呼ばれ、どっしりとした岩に譬えられています。昔、イスラエルの人にとって大きな岩は安心して身を隠せる場所でした。岩の陰に身を隠して、夏の日照りから守られ、冬の寒さから守られる。野の獣から守られ、休むことのできる場所でもありました。私たちも一週間の歩みで、神様から健康を守られ、経済を守られ、孤独や罪の誘惑から守られたことを思い起こし、感謝の祈りをささげるのです。

それでは、何故賛美と祈りで神様に近づくのか。それは神様が偉大だからでした。

 

95:3~5「【主】は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。 地の深みは主の御手のうちにあり、山々の頂も主のものである。海は主のもの。主がそれを造られた。陸地も主の御手が造られた。」

 

主が大いなる神であるとして、その偉大さはどれ程か。この詩篇は、地の深みも山山の頂も、海も陸地も神の創造したもの、神様が世界の所有者であると歌っています。

今から約60年前、ニュージーランド人のエドモンド・ヒラリーが、それまで前人未到であった世界の最高峰、9000メートルに迫る山々、エベレスト登頂に成功しました。しかし、今もエベレストは多くの人を寄せつけない圧倒的な高さを誇っています。

このそれに対して、日本海で最も深い日本海溝の深さは9440メートル。想像するだけでも引き込まれそうな海の底に立った人はいまだ存在しません。これからも不可能とも言われています。

しかし、その未だに人を寄せつけないエベレストの頂きも、これからも到達不可能と言われる日本海溝の底も神様のもの。どこまでも広がる海も陸も、そこに群がる多くの生き物も神様の作品。改めて、神様の創造の雄大さに圧倒される思いがします。

そして、もう一度、私たちは礼拝へと招かれます。

 

95:6「来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、【主】の御前に、ひざまずこう。」

 

最初の招きとの違いに注意したいと思います。二度めは、どう招かれているのでしょうか。最初の様に賛美や感謝をもってではありません。今度は「伏し拝み」「ひれ伏し」「ひざまづこう」、その様に招かれています。

伏し拝む、ひれ伏す、ひざまづく。いずれも、神様の前に自分を低くすること、へりくだること。二度めは神様の前に自分を低くするよう、私たちは招かれているのです。最初は喜びもって神様に近づく。感謝の祈りと賛美で神様に近づく。しかし、神様の偉大さを知って、今度は伏し拝み、ひざまづいて神様を畏れ、敬うことになるのです。

何故、この詩篇は私たちにひれ伏し、ひざまずくよう招いているのでしょうか。それは、神様の偉大さを畏れ、敬い、自分を低く、小さくすることが、私たちの人生にとって非常に大切なことだからです。

神様に近づき、前に出る時、私たちは一週間の生活の中で、いかに自分中心に物事を考え、行動してきたかを覚えます。いつしか神様のことはそっちのけ。周りの人が思い通りに行動しないとイライラし、周りの状況が願い通りにならないと不平不満をつぶやく。まるで神の様に周りの人を支配し、状況を支配しようとしていた自分の姿に気がつくのです。時には、神様にまで文句をつける自分がいます。

神様は小さく、自分は大きく。これが往々にして私たちの生活ではないでしょうか。ですから、礼拝において神様の前にひざまずき、本来の自分をわきまえ、神様の偉大さ、栄光を認めることが求められているのです。

勿論、私たちは神様を信じていないわけではありません。しかし、振り返ってみると、自分と自分の問題しか見えていないと言う時はなかったでしょうか。神様が見えていない時はなかったでしょうか。

私たちは神様の前にひざまづくことで、大きくなりすぎていた自分を、もう一度本来の自分に戻すことができる。この詩篇はそう私たちに教えています。そして、この様な招きの後に、再度神様を礼拝する理由が語られていました。

 

95:7「主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。…」

 

これを読むと、「主はわたしの羊飼い。私は乏しいことがありません」と言う、あの詩篇23篇を誰もが思い出すでしょう。今度は、神様が偉大であるから礼拝するのではありません。勿論、神様は偉大なお方ですが、同時に私たちの羊飼いであられるゆえに、礼拝するのです。

神様と私たちは羊飼いと羊の親密な関係になぞらえられています。羊飼いが一匹一匹の羊のことを知っている様に、神様が私たちを親しく知っていておられること。神様が私たちのあらゆる必要を満たすために働き続けてくださること。必要とあらば命を懸けても羊を守る羊飼いが私たちの神様であるからこそ、私たちはひざまづくのです。

神様は本当に偉大だけれども、恐ろしくて近寄りがたいお方でありません。むしろ、神様の方から弱き羊に近づき、ひとりひとりを導き養って下さる程に親しいお方なので、私たちは礼拝するのです。

さて、こうして礼拝への招きのことばが終了します。教会の礼拝では、ここまでを朗読するのが普通です。この後が読まれないのは、ここで詩篇の調子が一変。非常に厳しい調子に変わっているからかもしれません。

しかし、ここには礼拝に欠かすことのできない要素が含まれているのです。これ以降語られるのは、エジプトでの苦しみから助け出されたイスラエルの民が、神様の恵みに守られながらも、荒野で滅ぼされてしまったと言う残念な歴史でした。

 

95:8~11「メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。あのとき、あなたがたの先祖たちはすでにわたしのわざを見ておりながら、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。「彼らは、心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知ってはいない」と。それゆえ、わたしは怒って誓った。「確かに彼らは、わたしの安息に、入れない」と。」

 

イスラエルの民は、神様の恵みを受けながらも、荒野の旅の途中メリバやマサで神様に背き続け、神様のことばを心に留めることはありませんでした。その結果、荒野をさまよった挙句、安息つまり約束の地に入ることができなかったのです。

この残念な出来事が、敢えて礼拝への招きの詩篇に記録されたのは、何故でしょうか。それは、礼拝の中心が神様の御声を聞くことにあるからです。礼拝の中心にあるもの、それは、私たちが心を頑なにしないで、神様が語りかけるみことばに心を集中すること、心に留めること。その様に、信仰の先輩たちは礼拝を考え、礼拝をささげてきた。この様な姿勢で、礼拝をささげてきた信仰者たちの姿を、今日私たちの心に刻みたいと思うのです。

最後に、二つのことを確認しておきます。

一つ目は、礼拝において、神様に向かう私たちの思い、態度は決して一様ではないと言うことです。神様に向かって喜び賛美することと、神様の前に静かにひれ伏すこと。神様を畏れ、敬うことと、神様に親しむこと。

賛美と沈黙。歌声と静けさ。尊敬と親しみ。今、自分は神様に対して、どのような思い、どの様な態度で応答すべきなのか。このことを意識しながら、礼拝をささげる者でありたいと思います。

二つ目は、神様の御声を聞くことの意味です。このことを教えている聖書のことばをともに読んでみたいと思います。

 

ローマ12:12「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

 

神様のみ声を聞くとは、礼拝において語られたみことばを通して、自分に対する神様のみこころは何かを考え、生活に適用することです。神様との関係、隣人との関係に置いて具体的に何をすることがみこころなのかをよく考え、実行すること。それが霊的な礼拝だと教えられるところです。

その際大切なのは、「心の一新によって自分を変えなさい」と命じられているように、変えるべく取り組むのは自分自身です。家族に対する自分のことばや態度、ついつい顔をのぞかせる自分中心の考え方や行動、自分の中に残っている弱点や悪しき習慣。

礼拝において語られたみことばから教えられたことは何か、決心したことは何か。それを分かち合う仲間を持つことも、私たちの助けになります。その様な交わりの中で、もう一度み言葉を振り返り、考えを整理したり、新たな決意を抱くこともできるのではないかと思います。決心したことを書き留め、実行できたら神様に感謝することも、良いことでしょう。

この一年、私たちは礼拝の意味を考え、確認し、礼拝に臨む態度を整えてゆきたいと思います。神様の御声を聞き、みこころを実行する礼拝者として歩み続けることを目指したいと思うのです。

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