先週の日曜日、四日市は22年ぶりの大雪。そのために教会の礼拝に来られなかったと言う方も沢山おられたのではないかと思います。
私は先週石川県にある辰口キリスト教会で奉仕でした。午後辰口を出発する時雪は止み、空は晴れていましたが、福井県に入ると雪が降り、特急しらさぎは米原から先運転できないと言うアナウンスがあり、新幹線に乗り換え名古屋に到着することができました。しかし、四日市が一面の積雪であることに驚きました。今回に限っては、石川県よりも四日市の方が雪の量が多かったのではないかと思います。
先週の祈祷会でも、雪のため礼拝に出席できず自宅で個人的に礼拝した方、インターネットで礼拝した方の中から、教会に行き兄弟姉妹と顔を合わせ、ともに礼拝し、ともに交わることがどんなに恵みであるか。その様なことばをお聞きした次第です。
2017年もあっという間に半月が過ぎました。年の初めは、私たちにとって仕事、学び、家族としての歩みなど、どの様にこの一年間を過ごしてゆくのかを考える良い時期です。信仰生活も同じではないでしょうか。
普段あまり意識することなく行っている礼拝、伝道、交わりなど信仰生活の基本についてもう一度その意味を考える。そして、この一年自分として取り組んでゆくことを決め、心に意識する。できれば具体的な目標を立てて、実行してゆく。その様なことを願い、ここ数年、年の初めに信仰生活の基本について学んでいます。
今年は第一回目が礼拝、二回目が伝道でした。今日は交わりについて考えてゆきたいと思います。
ところで、先程祈祷会で礼拝に出席できなかった方々からお聞きしたことをお話しましたが、同じことを困難な事情のため礼拝に出席できない兄弟姉妹からも良くお聞きします。勿論、個人的な礼拝にも恵みがあるのですが、私たちの中にはそれだけでは満たされないものがあります。兄弟姉妹と顔を合わせ、ともに礼拝し、ともに交わることを求める思いが、心の中に存在するのです。
聖書の中で、使徒のヨハネがこの様なことを書いています。
Ⅱヨハネ1:12「あなたがたに書くべきことがたくさんありますが、紙と墨でしたくはありません。あなたがたのところに行って、顔を合わせて語りたいと思います。私たちの喜びが全きものとなるためにです。」
自分の思いを手紙ではなく直接会って伝えたい。顔を合わせて語り会いたい。私たちの喜びが全きものとなるから。ヨハネも交わりとその喜びを求めていた事が分かります。
また、新約聖書を見ますと、「互いに愛し合いなさい」「互いにいたわり合いなさい」「互いにあいさつを交わしなさい」など、交わりを勧める「互いに」と言うことばが、繰り返し登場してきます。
神様は、私たちの信仰の歩みを助けるため様々な方法を用いられます。大自然の素晴らしさや、自然の営みを通して、私たちは神様の知恵と力の偉大さを知ることができます。個人的な礼拝や聖書を読むこと、祈ることを通して、神様の恵みを頂くこともできます。しかし、それらとともに、信仰の歩みを助ける大切な方法として、神様が教会の交わりを与えて下さったことを、今日のことばの中に確認することができるのです。
4:15,16「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」
エペソ人への手紙では、教会がキリストの体と言われています。かしらがキリストで私たちは体の器官と言うイメージです。これを踏まえて4:15を見ますと、私たちの信仰の成長の最終ゴールは「かしらなるキリストに達すること」、つまり、イエス様の様に神様に従い、人を愛する者へと造り変えられことでした。そして4:16では、私たちの信仰の成長は、ひとりで成し遂げられるのではなく、教会の交わりの中で実現してゆくことが教えられています。
私たちが体の器官、一部に譬えられているのは何故でしょうか。ご存知の様に、目も手も心臓も、体の器官はどれひとつ自分一人で活動できません。全ての器官はお互いに助け合い、支え合いながら、全体が一つのいのちとして生きているのです。
私たちも同じです。自分が兄弟姉妹を助け、支えること、自分も兄弟姉妹から助けられ、支えられながら、ともに信仰の歩みを進めてゆくよう、神様に教会に集められた者でした。
皆様は、自分が神様から与えられた賜物で、他の兄弟姉妹を助け、支えることのできる存在であると考えているでしょうか。また、自分が兄弟姉妹から助けられ、支えられる必要がある者であることを自覚しているでしょうか。
自分は他の兄弟姉妹を助ける何の賜物もないと考えると、「自分などいても、いなくても」と感じて、交わりを避けたくなります。一方、自分が何でもしなければならないと考えると、交わりが重荷になるのではないかと思います。
自分ができることを通して兄弟姉妹を助け、支える喜び。自分ができないことは兄弟姉妹から助けられ、支えられると言う喜び。私たちはキリストの体の一部であることを自覚して、この様な交わりの喜びを味わってゆきたいと思います。
それでは、どの様な面で、私たちは助け合い、支え合うことができるでしょうか。神様は、どの様に助け合い、支え合うことを、私たちに命じているでしょうか。
第一は、慰め、励ましです。私たちの神様は慰め主です。そして、神様は私たちを通して、気落ちした人を慰め、励ますことが多いのです。使徒パウロも、弟子のテトスによって神様の慰めを受け取ることができたと書いています。
Ⅱコリント7:6「気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」
私たちは皆大なり小なり、人生において危機や葛藤に直面します。気落ちし、ストレスに悩み、肉体的な疲れがたまる時があります。しかし、その時期は各々異なります。ですから、一人が慰め、励ましを必要としている時、周りはその人に手を差し伸べることができます。
私たちは、誰かに赤ん坊が生まれた時には互いに助け合います。愛する家族が天に召された方がいる時には葬儀に集い、奉仕をし、慰めを伝えます。また、自分自身が疲れ果てたり、気落ちしている時、他の兄弟姉妹に助けを求めることができます。お互いが慰めや励ましを与える働きをなすうちに、教会はその深さにおいても幅においても成長してゆくことができる。そう聖書は語っています。
第二に、知恵です。私たちは生きてゆくうえで、様々な知恵を必要としています。聖書を理解してゆくため、夫婦・親子の関係を良いものにしてゆくため、精神的な病や肉体的な病に対応してゆくため、職業の選択や、正しくお金を使うため等、本当に様々な分野で知恵が必要です。
そして、教会の交わりは、私たちがこれらの知恵を得るために神様が備えられた最もすばらしい場所の一つなのです。自分が未熟な分野で、人生の先輩、信仰の仲間に相談をし、アドバイスをもらう。自分が相談をされたら、誠実に話を聞き、できる限りの助けの手を差し出す。この様な交わりも、私たちの信仰の成長につながるものであることを覚えたいのです。
第三に、関係の修復です。私たちは自らの未熟さのゆえに、兄弟姉妹を傷つけてしまうことがあります。逆に、兄弟姉妹から心を傷つけられることもあるでしょう。心が無傷のままで信仰生活を送れる人は、誰一人いないのではないかと思われます。
他の人からの愛を拒む。人の求めに対して「ノー」と言えない。人とどうかかわったら良いのか分からない。つい自分の基準で人をさばいてしまう、責めてしまう。自分の思い通りに周りが動かないとイライラする。
私たちは、霊的に未熟な部分を抱えています。自己中心と言う罪の問題が、私たちの深い所にはあるのです。余りにも自分の一部になっているので普段は気がつかない自己中心の性質に、私たちは教会の交わりの中で気づかされます。自分の罪を知ること、自己中心的で未熟な考え方やことば、態度に気がつくこと。それは、神様が交わりにおいて与えて下さる恵みのひとつです。
勿論、自分の罪や未熟さに気がつくだけで関係修復が終わるわけではありません。自分が人を傷つけた場合には、自分が間違っていた点を心から謝罪する必要があります。自分が傷つけられた場合には、相手を赦すことに取り組む必要があります。どちらも、簡単にできることではありませんし、時間がかかる作業です。
しかし、この様な関係修復に取り組むために、神様は教会の交わりを与えて下さいました。安心して話ができる兄弟姉妹に、自分がしたこと、自分が受けた傷について話すこと、信頼できる兄弟姉妹に祈ってもらうこと、アドバイスを貰うこと。この様な交わりの中で励まされ、知恵をもらい、私たちは関係修復に取り組んでゆくことができるのではないかと思います。
最後に、三つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。
一つ目は、神様との交わり、兄弟姉妹との交わりの時間を、意識して生活の中にも受けることです。今日は、教会の交わりについて考えてきましたが、私たちの信仰生活に神様との一対一の交わりが欠かせないことは言うまでもありません。聖書は神様との交わりも、兄弟姉妹との交わりも、どちらも大切なものと教えています。
果たして、普段私たちはどれ程意識して、神様との交わり、兄弟姉妹との交わりの時間を取っているでしょうか。仕事、食事、学び、家事に育児、趣味の時間。私たちの生活は多忙を極めます。時間やスケジュールに追われていると感じる人もいるでしょう。その様な中、神様との交わりや兄弟姉妹との交わりは緊急性がないと言いましょうか。それをしないからと言って、すぐに何か困るわけではないので、つい後回しになってしまいがちではないでしょうか。
しかし、私たちの人生には緊急性はないけれども、長い目で見れば本当に魂にとって大切なもの、欠かせないものがあります。それをするとしないとでは、人格や生き方が大きく変わってくるほどに大切なものがあります。その一つが、神様との交わり、兄弟姉妹との交わりです。
一日、一週間の時間の使い方を振り返り、定期的に神様との交わり、兄弟姉妹との交わりを組み込むようにしたいと思うのです。神様と交わる時間と場所を決める。ある人と、あるいはグループで定期的に個人的な交わりの時間を取る。地域会や世代別会に参加してみることも良いと思います。
二つ目は、一人一人が心を開いて、交わりの範囲を広げること、交わりを深めることです。顔は知っているけれど、今まで話しかけたことのない人に、機会をとらえて話しかけてみる。既に親しい交わりができている人の場合には、自分の心の深い所にある思いを話してみる。いずみサービスの奉仕や利用と言うのも良いかと思います。昨年8月に始まったいずみサービスですが、奉仕者も利用者もともに話してくださるのは、いずみサービスを通じて、親しい交わりが広がったと言う喜びの声です。
親しい交わり、深い交わりは、受身の姿勢でいてもなかなか実現しない気がします。自分から心を開く勇気、自分から一歩前に進む小さな勇気が必要かと思われます。
私たちは皆、一人で信仰の歩みを全うできるほど強い者ではありません。霊的に弱い部分、未熟な部分を抱えています。交わりを喜べる時もありますが、交わりを恐れたり、困難を覚えたりすることもあります。しかし、神様が教会の交わりの中に恵みを備えてくださっていることを信じ、交わりの中でキリストに似た者へと造り変えられてゆくことを信じて、交わりを大切にしてゆきたいと思います。
今までよりも、一歩でも良いから交わりを広め、深めてゆくことに取り組む。一人一人ができることから始めてゆき、私たち皆が交わりを求め、交わりから恵みを味わうことのできる一年にしたいと思うのです。今日の聖句です。
へブル10:25「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
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